思い出を与えてくれる街
「マレーシアに転勤になったから」
そう突然父から告げられたのは、15年前の小学校6年生の後半のことだった。
父の会社の関係で、だ。
友達と中学校生活を送れることを当たり前のように思っていた時に、
その言葉は爆弾のように私に降りかかった。
「絶対に嫌」
私は断固として反対した。
「私は日本に残るから」
そういうと両親は、
「決まったことだから仕方ない」
と強くはねのけた。
実は海外に住むのはこれが初めてではなかった。
父の会社の関係でシンガポールに住んでいたことがあったのだが、それはほんの3歳の頃で、今回の転勤とは訳が違った。
今回私には「意思」があったからだ。
もちろん、小学生の私が反対したところでどうこうなるはずもなかった。
3月の終わりの、それもまだ桜の咲く前に、私たち家族はマレーシアのクアラルンプールに移り住むことになった。
12歳と若かったのもあったが、私は驚くほどクアラルンプールでの生活に慣れていった。
反対していたのが嘘のようだった。
中学校は日本人学校に通い、塾にも通い、習い事をして、友達と遊ぶ、という生活を送った。
それでも時たま、日本の中学校に通っていたらどうだったのだろう、と思いを馳せることもあった。
中学3年間はあっという間に過ぎ去り、気がつくと私は日本に帰る飛行機の中にいた。
飛行機が徐々に速度を上げ、フワッとした感覚を覚えたと思ったら、窓の外には3年間を過ごしたクアラルンプールの街が見えた。晴天だった。
私は、
泣いていた。
クアラルンプールに来るときも泣いた。
「行きたくない」という涙だ。
日本に「住んでいたい」という思いだ。
でも今は、この地を離れたくなくて泣いている。
この地に「戻りたくて」「行きたくて」涙している。
おかしいな、あんなに来たくなかったのに。
あんなに反対したのに。
あんなに友達と離れたくなかったのに。
様々な思い出、景色、人々が頭の中を駆け巡った。
JSKLと呼ばれる日本人学校。
美しい緑の芝生の広がる校庭を、何度美しいと思って見つめただろう。
そして全国各地から集まった、同世代の友達。
全国各地から選ばれた先生たち。
厳しい受験を共に闘ってくれた塾の先生たち。
英語の家庭教師をしてくれた元国連職員、インド系のニルラ先生。
自宅でピアノを教えてくれ、いつもニンニクの匂いがした中華系のジェニファー先生。
マレーシアの田舎でホームステイをした時に温かく接してくれた消防署のおじちゃん家族。
そこで空を見上げると、今まで見たことのないような星の数々に流れ星。
それに、熱帯に住む巨大な昆虫ども!
日本とマレーシアの国際親善を図る「盆踊り大会」で、中学3年生の時に櫓の中心で踊ったこと。
現地の中学生との貴重な交流。
時間になると聞こえてくる、イスラム教のお祈りの音楽。
日曜日は家族で現地の人に混ざり、屋台で食べた朝ご飯。
プールにテニスコートにジムに、とてつもなく広いコンドミニアム。
街中に生えるヤシの木。
日本と韓国が協力して建てたクアラルンプールのシンボル、ペトロナスツインタワー。
もう戻ることのない時間をこんなにも愛おしく思ったのは初めてだった。
7時間のフライトの末、無事日本に到着した。
私の海外での3年間は幕を閉じた。
あれから日本で高校生活、大学生活を送った私はいつしか、「海外に住みたい」という気持ちを大きくしていった。
高校も大学も「英語科」に属し、英語を一生懸命勉強した。
何より、思い出の地であるクアラルンプールに帰りたかった。
当時の日記には、マレーシアへの想いがびっしりと書き綴られている。
クアラルンプールに行きたい、住みたい。
そう思うまま、時は流れた。
そんな時、きっかけが訪れた。
去年、再就職した父がクアラルンプールでまた働くことになったのだ。
妹と訪れることにした私は、十数年ぶりに見る世界に心を躍らせていた。
思い出の場所を回った。
通っていた中学校も訪れた。
住んでいた場所もこの足で歩いた。
夢のようだった。
すべて終わると、あれだけ戻りたかった場所なのに、
一切の執着がなくなっていることに気がついた。
不思議だった。
その時初めて気がついたのだ。
私が住みたい街は、クアラルンプールではないのかもしれない。
クアラルンプールは「外の世界を知りたい」という「好奇心」を与えてくれた場所にすぎず、
私が住みたいのは、
「その時にいる街」
なのだろうということに。
それはその時に気がつくことなく、きっと後から思い出されるのだろう。
そして「また住みたい」と言う。
「あの場所は良かった」と言う。
だから、
そう、
今ならこう言える。
私は住みたい、今いる街に。
後から思い出という宝物となって、「住みたい」と思うだろう街に。
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